外から見える自分らしさは「キャラ」
「らしい」という接尾語は、「いかにも~だ」という”特徴”を表します。(下の注参照)
ということは、「自分らしさ(自分らしい)」というからには、自分の特徴を表していなければ矛盾していることになりますよね?
もちろん、人は一面的な存在ではなく、自分の中にはいろんな要素があります。
でも「その中でも特に!」というのが「自分らしさ」になります。
自分にも、周りにも分かり易い「らしさ」だけではなく、普段は隠れていて何かきっかけがあって初めて出てくるようなものもあるし、まだ出てきていない「らしさ」もあるかもしれません。
一番外側にあって、認識されやすい「自分らしさ」は、往々にして周りから「キャラ」として捉えられています。
例えば、”サバサバした姉御肌”の人が、下を向いて恥ずかしそうに小声になったら、気心の知れた友人なら「なに恥ずかしがってるの?そういうキャラじゃないでしょ?!」とツッコミを入れるかもしれませんね。そんな風に、「キャラ」は周りから「◯◯さんはこんな人」と思われているイメージのことです。
芸能人、特に芸人さんを見ていると良くわかると思うのですが、たくさんの人から「◯◯さんはこんな人」として認知されるためのパーソナルブランディングとして、「キャラ」を上手に使っているように見えます。
(注:この「らしい」は伝聞、推量の「らしい」とは別物です)
自分が見る「自分」と周りが見る「自分」
「自分らしさ」は、確かに自分が本来持っている才能や資質であり、それがよくわかる形としての”特徴”です。ただ、私たちは社会生活の中にいるので、自分らしく生きたいのであれば、ただ自分が認識していればそれでいいのではなくて、周囲との相関性の中で捉えるのが大事です。
・自分らしさを具体的にどう体現するか。
・自分らしさはどう周りから認識されるのか。
この2つはセットで、私はこれを「自分らしさの作用・反作用」と呼んでいます。
人間関係は多種多様です。
・いつから知っているか。
・どれだけ長く知っているか。
・どんな状況で知り合ったか。
…といったように、知り合った時の背景や事情から、相手にとっての自分のイメージ(キャラ、印象)はほぼ決まります。そして、一度決まってしまうと、なかなか変わりません。
場合によっては、自分が期待されている役割を何となく感じ取って”つい演じてしまった”ばかりに、そういう人だと思われて演じ続けることになってしまうのも、共感性の高い人にはありがちです。
同窓会などで久しぶりに会った友人から「何だか変わったね」「あれ?そういうキャラだった?」と言われたりするのも、昔はあまり表に出ていなかった部分が、様々な経験を通して活性化されて、周りからも見えるようになっただけ、ということが多いのです。
どんなイメージであれ、理由なく出来上がったわけではありません。
自分の中にそういう”らしさの要素”があるのは事実ですし、特定の環境ではそれが「自分らしさ」として周りから認識されていたかもしれません。ただ、それが自分の全てではないのです。
幾らその”要素”があるからといっても、10に対して1程度しかないものを力技で10あるように出すのは疲れて当然です。
実際、どんなに頑張っても10にはならないでしょうし、良くて真ん中の5くらいにしかならないはずです。それより、最初から7か8くらいあるものを、10に近づけたほうが、遥かに楽ですし、効果も期待できます。
「自分が持っている価値を、どうしたら周りに提供できるのか?」
本来あるべき”キャラ”は、この質問の答えになっていないと、無理があると思うのです。
もし「キャラを”演じる”のが苦しい。疲れる」と今感じているなら、それは結局は「自分らしくない」のですから、これ以上無理をする必要はありません。
周りの目?周りの期待?
そういうのに義理立てして、自分を疲弊させるなんて本末転倒です。
「真に自分らしい自分」に勝るキャラはありません。
自分にとっても、そして周りにとっても。
それとも居心地が悪いでしょうか?
あなたの体験談を、コメントまたはメールで、是非教えてください。